初めてキャンプにやってくる子どもたちが多い六甲山のキャンプは、ゆっくりと時間が進んでゆきます。
沢が中心にあるキャンプ場での生活は、水を起点に始まります。
穂高湖から流れ出る小さな沢を歩いていると、水の小道を歩いているようでした。
沢歩きの基本は谷底を歩くことです。いち早くそれを感じとった子どもが、すいすいと進んでいきます。
「僕たちはかつて森で暮らしていた」ということを、身体が覚えているようでした。
夕方からは、焚き火を囲んでのお話の時間。
夕食を食べてのキャンプファイヤー。
火と言葉が交わされていきます。
近代社会に暮らす僕たちは、どうしても感受性が失われていきます。
錆びついた刃物のようにです。それは子どもと言えど例外ではなく、沢によって、森によって、森で暮らす人々によって、もう一度鍛えられ、研磨される中で、苦しみと共に感受性を取り戻していきます。
「初めに言葉ありき」という聖書の言葉は、言葉の前を示します。
なぜ終わるとわかっている宇宙が存在するのか?
なぜ死ぬとわかっている生があるのか?
なぜ別れるとわかっていてキャンプで出会うのか?
それはきっと良き知らせを知るためなのだと思う。そう思わずにはいられないことがキャンプではたくさん起こります。
「その両手は誰のためにあるのか」
その問いかけに応えてほしい。
今朝霧中の森で、子どもたちに呼びかけました。
あらゆる眼差しに応える姿勢が、この世界を生きる責任感に繋がります。
初めてを喜ぶ六甲山のキャンプは、たくさんの驚きの中で進み、いくつかの切り口で深められたその感情は、内なる光となって輝き続けると願っています。
※電波状況が悪く2日目、朝の更新となりました。